失われた日本食が歯の病気を増大させた

身土不二

日本はほぼ半世紀前に丸裸になり、過去の反省にもとづき、国民がこぞって懸命な努力をし、成熟した国家社会になっていたはずであった。
しかし、米国追随の経済至上主義に傾斜し、売れればよい、金があれば全て良しとして、大量生産、大量消費、そしてそれらの大量廃棄が、日常となってしまったのであった。
そして、掛け替えのない地球の自然環境と、人心の廃墟までをも招いた日本を始め、各国の”大人”の責任は重大であろう。
この後も誕生する未来の人々を思う時、他人事ではなく慄然とする。
この甚大な影響を真撃に受け止めざるを得ないだろう。

資料を紹介する。

『ヒトーこのやくざな遺産相続人』

「16、17世紀に始まり18~20世紀にかけて急速に発達した近代文明の特徴は、機械と化石炭素(石炭、石油)の使用にあったと言ってよい。
特に化石炭素の発掘と使用は過去の生物による『大いなる遺産』を食いつぶす行為であり、元金、利子ともども全くなくしてしまうことである。
石油、石炭などの大量燃焼による酸素の消費と炭素ガスをはじめとする有害物質の大気中への解放は三十億年もの時間を飛び越えて、一気に原始大気への逆戻り、無生物状態への逆戻りである。
街角に設置されている『只今の公害状況』を知らせる電光掲示板を、つくづくと眺めてみると良い。
ヒトという、このやくざな遺産相続人は相続権など全くありはしないのだが。(後略)」
(『環境の保全と生態学の原則』より (信州大学医学部助教授・宮尾嶽雄、昭和50年9月20日発行「大阪農業」第13巻第2号))

およそ30年前の資料であるが、指摘されている内容は現在も全く改善されず、聞く耳を持てない国家社会に成り下がっている。

鶏卵の雌雄は、気温によっても変化すると言われている。
地球温暖化現象が各方面で現実の問題となっているが、全生物の今からの緊急課題であるところから、決してあなた任せになど出来ない大問題であろう。

これら諸般の状況の下で、今問題のある児童、生徒に対しての見方に、最近”思春期病”などと呼ばれ、思春期外来という診療科まで出来ている。
様々な見方・考え方があるのは理解できるとしても、それら原因の分析の中にも、歯の噛み合わせや顎の位置異常のことなどは全く問題にされてない。
人は生を受けごく正常な成長過程においても前述のとおり歯や顎も年齢とともに様々な変化をすることは、二足歩行を常とするヒトの宿命なのである。
人格形成などの重要な時期に、原因がわからない病状を抱えたまま成長期を過ごすことで、性格や体格、ひいてはその人の人格にまで影響する可能性があることも、指摘しなければならない。
俗な言い方に”ボタンの掛け違い”という言葉があるが、成長期の大切な時期にこそ適切な対応が望まれる。

また、現在、報道される国内や諸外国で問題になっている未成年者にまつわる、実に驚くような事件の数々、その原因となる背景などの解説には、従来から黙然と”心と体のアンバランス”や”対外的な因子”を挙げている。
また、ごく最近になり潜在的鉄欠乏症による貧血等による、フラストレーションを挙げながらも、これらのいずれもが原因の特定をしかね、事件そのものをセンセーショナルに報じているのである。

ひと社会における個人の評価は、その一生を左右することを考え合わせると、専門の立場からの歯の噛み合わせに異常がないか、顎口腔の精密検査をしてみることも無駄ではないと考える。

また、成長期における子どもの問題は、この30~40年、ヒトの成長する速度が、特に食に関連して急激な変化をしている。
問題のあるトウモロコシや成長ホルモン(エストロゲン=女性ホルモン、発情ホルモンとも)、また、牛の食性を逸脱し、共食いを強いる為に起こった狂牛病事件などをみていると、それらで促成栽培された食材を、スーパーなどで安売りし、大量消費していることにも大いに関係し、加速度的に早くなっている。
それは、特に女性の初潮の低年齢化に顕著といわれる。
その結果、女性の排卵回数の制約上、いわゆる更年期症状の早期化に繋がり、女性の社会進出と晩婚化傾向などとも相俟って出生率の極端な低下となってしまっている。

そこで、現在までの子育てなどの価値観について、従来からの考え方でこれら現象を判断しただけでは現状分析を誤り、適宜、適切な対応が出来ない結果となりかねない。

国の行政にのみ任せるのではなく、各個人、各家庭の問題として注意深く見極め、取捨選択することが、自分自身や家庭を守ることにもなるだろう。

母体に宿ることではじまるヒトの一生は、一個の命としての働きによって形成されるものであるが、親や周囲による真の愛情にはぐくまれなければならないことは言うまでもない。そうして成長して考える能力が芽生えてからは、基本的には自己を、また、家族を守ることは当然の権利であり義務である。
これらのことを思う時、他に判断をゆだねること自体、甘えの構図のなにものでもないことを知るべきだろう。

資料を紹介する(島田彰夫宮崎大学教育学部教授 『食とからだのエコロジー』「『欧米並み』をめざした果てに」の項)。

「第二次世界大戦後の日本人の食生活の変化は、きわめて大きなものであり、食生活によって、作りあげられる私たちの身体に戸惑いを与えるのに充分なものであった。
『豊葦原瑞穂の国』とまでいわれる豊かな土地で、数千年にわたって築き上げられた、民族の食文化が、わずか三十数年で破壊されるという結果は、単に健康ばかりではなく、人間関係なども含めて、日本人のあり様そのものを変えてしまった、といっても過言ではないだろう。
まさに一億人規模の壮大な実験であったといっても過言ではない。
そしてこの実験は現在この瞬間にもまだ続いているのである」

元より、日本は食物素材の質量の多さは世界に冠たる国であった。紹介資料の内容もさることながら、日本に限らず、ひと社会の身土不二(生まれ育った風土と食とからだは一体であり密接不可分という意)の大原則を逸脱したためと思わしき各種疾患の多発傾向や、先の敗戦以来さまざまな外圧に屈する形で打撃を蒙った各種産業に対する対応も、国家存立の歴史や、この国の民族の生活ぶりまで変化させてしまうことなのである。

それについて、自然人類学者の植原和郎国際日本文化センター教授が、「現在の日本のいろいろな状況から推察すると、五世代、150年もすれば日本人は”ダメになる”であろう」と講演されていたことを思い出す。

これらを勘案する時、現在発展途上にある国民と、先進諸国の国民の実質的体力差に目を向けることも、その実情を端的に知る早道ではなかろうか。

従来から、先進国の国民という呼称に対する常識は、それらの国々の体制や教育のあり方を始め、全ての分野においていわゆるヒトが暮らすことにおいての完成度が高いということを意味する。
しかし、果たして本当にそうなのだろうか。
前出資料の『ヒトーこのやくざな遺産相続人』で紹介したのが、わが国をはじめとする先進国と言われる国々の内情は、ヒトが人として生活することに適した環境なのであろうか、と。

わが日本国も先進国の仲間入りをして久しいのであるが、この国の責任のある指導層は自然環境の保護や保全を時折り装飾語のように口にするが、出てくる政策や方針の結果は、経済至上主義を前提とした、マキャベリズムに踏襲されているに過ぎない。
そして、その方がより国家国民にとって幸せに繋がる、という詭弁である。

そこには”便利”だとか”快適”という言葉の持つ魔力に翻弄され、ヒトが人として生きるための基本である大気が汚染されてしまい、命の元である飲料水に地球的規模でその影響が現れているという現実は覆い隠され、700兆円を越すと言う、国民の未来にまで付きまとう膨大な借金を背負わされていたのであった。

新しい世紀を迎えたこの時期、各個人としても、様々な”価値”の重要な判断基準の一つとして心掛けるべき課題ではなかろうか。

限りある自然環境の中で生かされる「ヒト」の存在は、いかにも脆い存在であり、その環境に順応しなければ、生命の存続すら立ち行かないにも拘らず、我欲の利便性を第一に、大気圏を含む地球環境的規模で、破壊に継ぐ開発の歴史を繰り返してきてしまった先進諸国、そしてそれらを満足させるために繰り返される覇権主義、また、その覇権主義を他国の内政にまで増長し、相手国の民衆の身土不二の大原則をも、グローバリズムの掛け声の下に、力によるごり押しで貫こうとする超大国などの責任は、宇宙の歴史上も真に重大である。
そこには”自然”に対する畏敬の念など、そのかけらも見出すことが出来ないからである。

ごく最近の話題であるが、地球環境のテーマに開かれた地球温暖化防止京都会議でようやく採択された京都議定書を、一先進国が自国の利益にそぐわないとして離脱宣言をしたのである。

自国の利益の内容とは、経済の停滞を招く恐れがある、としているが、日本を除く他の先進諸国からは、早速”遺憾”の発言が相次いでいた。いかに自国民の利益といえども、地球の自然環境までをも我が物にしようということなのである。

平和を求める一般的庶民の感覚からも「愚劣極まる独善的政策だ!」との批判に恥を感じないのであろうか。また、それまでして自国民にアピールしなければ、為政者として威厳が保てないのであろうか。
しかし、それに輪をかけて理解に苦しむのは、そのような離脱宣言を「理解出来る」と公式見解を表明した日本国である。また、日本の財界も「これら実施が法的拘束力を検討する事態になった場合、政府は京都議定書から離脱する覚悟が必要など」などと語り、環境保全に対し拒否の考えであるとしている。
元より国民の生命財産を擁護しなければならないはずの為政者や財界は、今の地球環境をどのように判断し、どの基準でこのような公式見解を出すに至ったのか、将来の国民までをも納得させ得る説明が必要である。

人類をホモ・サピエンス=賢いヒトとした。
これに対して、ホモ・スツルツス=愚かなヒトと言う言葉がある。
各界の指導層は一体何を血迷っているのであろうか、と政治や経済にうといごく普通の生活をする一般庶民までもが、一様に驚いているのである。

それらの先進国の国民に目を転ずれば、基礎的体力などに大きな変化が及び、目を被いたくなるような歪んだヒト社会を形成しているのである。今や、歯止めが掛からない、驕り高ぶった様子があらわになっている。
そして、全世界が驚嘆した世界貿易センターへの航空機激突映像であった。
それらは、大国に見られる二重基準がもたらす殺戮の繰り返しの一場面である。
そして、それらを構成する国民の実態は、まず感覚器の減弱化、その代表的な現象に視力低下にともなう眼鏡(矯正視力)使用率の高さが上げられる。

次に、現状は食物素材など豊かであるにも拘らず、極端な偏食傾向で若年層の肥満が目を引き、高血圧症や亜鉛欠乏症、糖尿病などのいわゆる生活習慣病の頻発傾向にある。
また、乳歯の崩壊などにより、後に萌出する永久歯の歯列異常が当たり前のようになっている実態。
また喘息、アレルギーのような自己免疫性の低下に見られる症状や、自律神経失調にまつわる各種不可解な症状などに見られるのである。

これらのことは、特に体力や冷静な分析能力など、総合的な持久力が必要条件になるマラソンの国際試合などを見ると、最近は特に国籍とは別にアフリカ勢の強さを代表格に、発展途上国の選手の活躍が記録の面からも著しい。

日本の国技である相撲の世界でも、力士のからだの大きさに反比例する形で、生活習慣病の多発傾向や、自身の体重が重すぎることがそもそもの原因のための怪我や故障などで、力士生命を左右しかねない場合もある。
また、青少年の運動能力が、親の世代に当たる30年前との比較でもかなり低下していると言う。
具体的には、走る、跳ぶ、投げるなどの基礎体力に著しい違いが出ているという。

これらのことからも、現在の「食材」や「食のあり方」、また総合的な「生活実態」に根本的な問題があるのではないか。
これを、それぞれの識者が指摘しているのである。
このようなことから自分自身の健康を守るのは当然だが、家族の健康、また、この国の将来を考える時、決してあなた任せなど出来ない大きな問題と言っていいだろう。

しかし、現在の日本の政治、経済、教育等に加え、あらゆる意味の環境の汚染や崩壊などの惨憺たる状況を、ただただ従来からの価値基準だけで基本的な国民の健康や、限られた自然環境に対する倫理的な面からも、より大局的、総合的な視点で将来を展望するべきではなかろうか。
それも早急にことが運ばれなくては、その意味や効果を失うのである。

それにしても、未だ誕生していない未来の国民にまで大きく負担が付きまとうような借金財政で、公共事業という美名に隠れ、自然環境をめちゃくちゃに破壊する政策をやすやすと実行に移す政府や、せんじ詰めれば自己保身や将来展望のない政策しか持ち得ない政治屋の実態は、如何に多数決原理ではあっても、将来性を受ける物たちはどう判断するであろうか。
小手先細工の環境政策で、住みにくい環境になってから生まれる子孫のことまで考えるのが、今を生きる責任である。

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