失われた日本食が歯の病気を増大させた

進化は退化

ヒト科のヒトで二足直立歩行をする我々の身体構造そのものは、人類学的に見ると、旧石器時代に適応した構造の域を一歩も超えていない(植原和郎日本国際文化センター教授、自然人類学)。
これは、解剖学の剖出所見においても追認することが可能である。

しかし、現代に生きる我々は、人体のこのような基本的な構造的事実を、どのように捉えているのであろうか。もしかすると、旧石器時代のヒトより進化した構造のからだになっている、と錯覚しているかもしれない。

18世紀初頭に起こった産業革命は、人類の求める利便性を、ある意味において満足させてくれた。
また、日常生活をする上でも、必要以上に身体を使わなくても楽な生活ができることに、人々の賞賛を得たのであった。しかし、それらを求めた結果は、生き物にとって第一義的に必要な、きれいな空気ときれいな水とを、決定的に汚す歴史の始まりであったことに気付くのが遅すぎる結果となってしまったのである。

旧石器時代のヒトの生活は狩猟、採取がその基本であったことは容易に想像できる。

厳しい地球環境から身を守り、空腹を癒し、外敵から身を守り、二本の足で歩き両上肢を自由に使いこなし、前頭葉の発達に伴い、人類の限りなき欲望をば満たそうと、各分野のエキスパート達はこぞって努力するのである。その歴史的過程は、想像に余りあるほどに身体を酷使したことであろう。
また、その食についても身土不二の原則が保たれていたのであった。

このような環境で、今から一万年前の人類には虫歯が無かったと考えられている。しかし、20世紀に入って80年(今から約20年前)には齲蝕の罹患率が約80%に急上昇しているという。
この例からも、ひとは頭脳的にも進化しているなどとは言えないのであろう。(山賀禮一『歯なしにならない日本人』より)

これを下敷きにするまでもないが、”進化は退化”の原則を追認することができる。

例えば、現在を生きる人類をいろいろな視点で観察すると、第一に、ヒトの生活にとって必要不可欠な地球の自然環境、特に空気と水を自らの手で汚染してしまうという、最も愚かしい行為を犯してしまったのである。これらは、先進国はおろか開発途上国のごく普通の人でも経済優先の政策に乗じて、ごく日常的に全ての地球資源をあらゆる形で”消費”していることに、その原因がある。
自らの手で自らの首を絞めるも同然と言えまいか。しかし、これら全ての原因は、他でもない先進的な国々、そしてその国を構成する一人一人に大きな責任があることをしっかりと認識し反省すべきだ。
その反省が速やかに、しかも適切に行われるものである限り、現在の状況においてもなお将来に一縷の望みを抱くことが出来る、とする説もある。しかし、現状を考える時これらの説がどれほどの説得力をもつものか、また、我が国の地球温暖化政策を見るにつけても小手先細工のようであり、現時点では残念ながら光明を見出すことは出来ない。

今や清浄な空気と水を求めることの難しさは、環境やヒトのからだにも、いわゆる地球的規模で公害病をもたらしている。

山紫水明の国、豊葦原瑞穂の国と言われたこの日本においても、今では当たり前のようになった、コンビニエンス・ストアーで売られている「きれいな水」や「きれいな山の空気」も、初めて見た時の驚きもどこかに忘れてしまった自身がいるのである。

後世の人々に何と説明するのであろうか。後世の人はきれいな水、きれいな空気を買う前に「汚さないで欲しかった!」と。
今を生きる一人ひとりが、律しなければならないのではなかろうか。しかし現在、本当にきれいな水や空気がこの地球環境に存在するのかどうか?疑わしい限りである。
また、最近、耳目にするまことしやかな話しとして、近い将来に水による戦争がおきる、と2000年1月11月付け朝日新聞朝刊は、『水が世界を脅かす』とのタイトルで、「枯渇、汚染で奪い合い懸念」と報じていた。

それにしても、ヒトはその生まれ育った風土に深く影響されるものといわれている。
現在、市販されている飲料水の中には海外から輸入されているものもある。これらに対し、将来にわたる根本的な身体的影響調査など行われているのであろうか。

大陸の水質については、かねがね、その成分に石灰質が多く含まれていることはよく知られている。無定見のまま様々な渡来趣味が問題視される中で禍根を残す結果とならないか、と危惧するのである。

どうであろうか。
この国あって供給のための大量生産、大量消費が、そしてそれらの大量廃棄も当たり前になってしまって、振り返ることすら忘れてしまったのではないかと思わせるほど、あくせく今を生きる人類一人ひとりの最も大きな根本的課題であり、重大な責任なのではなかろうか。

筆者の博物学の死であり、前愛知学院大学歯学部教授の宮尾獄雄先生は、東京都西多摩郡桧原村の山中に現存する廃屋で、平成6年7月21日発行「月間デンタルパワー」第115号紙上で、インタビューに応えて次のように語っておられる。

「日本で近代社会が始まって100年です。その100年の時代でも、本格的な近代文明が花開いたのは50年のことです。人間はこの50年の間に100万年の歴史を全部なくしてきたわけです」また、「ひとつのことをするのに、出来る限り楽な方法、手段はないかと考えるのは人間の特質でしょう。荘子は紀元前300年頃の人ですが、機械に頼ると、自然のままの純白な美しい心が失われ、生命のはたらきの安定を失ってしまうといっておりました」と、また「楽であり、一面的には利益を与えてくれましたが、その反動があることを知るべきです」と語られている。

環境に関する各種の標語や看板は至る所で目にするが、標語を掲げているだけではもうどうにもならないところまで来てしまった。
今現在だけの環境ではないのである。ヒトが、そして動物が健康に生活させて頂くためには、なにがなんでも必要不可欠な地球環境なのである。
考えて行動することができるはずの一人ひとりの問題だろう。

我々にとって安全で安心できる良い環境を維持、管理するための方策をいくら企ててみても一番に難しいことは、それぞれ個人の心に潜む”自分だけは許されるだろう、誰も見ていないから、自分の所有地だから、この程度なら”という、いわゆる「心の魔性」の存在である。

これらに対する最善策を考える時、方法論の一つに、やはり政治の影響力を期待するのである。
しかし、我が政府の環境政策にも首を傾げたくなる。主要国の元首並みに専用の航空機を!と導入したのは、今からそれほど古い話ではない。しかし、その専用機なるものは150トンほどの重量があるという。
離陸の際には機体重量のほかに、150トンほどの燃料を積載し離陸する。そして、着陸時点にはその150トンの燃料の殆どを消費するという。それによる大気汚染は言わずもがな、であろう。当事者による、その必要性についてのコメントなどは、聞くに及ばないところではある。

我が国の!とは言わないが、真の為政者であるなら、国際会議の席上、「私たちは民間定期航空路線を利用し出席した」となれば、その影響力はいかばかりか計り知れない。
流石!政治家と、全世界の、また、後世の評価までをも得ることになるであろう、という夢を見る。パフォーマンスばやりであることから。

次に体力的な観点では、人体の体幹や筋肉などの組織は、解剖学的に人種や性差の別なく法則性の下にある。また、人体の生理には普段使わない体幹の骨組織は癒着し、付随する筋肉などの軟組織は減弱化するという大原則がある。
つまり、廃用症候群といわれる症状である。その原則どおり腰痛などの関節炎や筋力の弱体化が著しく、思うように自身をコントロールできなくなるのである。

一方、食材の供給源を全世界に求め、身土不二の大原則を逸脱し、地球規模で豊富になったことで、寿命を延ばす効果にもなっているという説もある。
しかし、それらが原因の貿易摩擦の問題や、加齢とともに運動不足が原因で起きる肥満や、小児期から始まる成人病などの実態は、脳の働きまでが如何にもひ弱になってしまったことの象徴でもあろう。

ヒトはただ生きることが目的なのではなく”心身の健康”が環境の面からも約束されて初めて長生きの価値が生まれるのである。

しかし、近年に至り先進諸国の国民は、加速度的な異変に拍車がかかっている。とくに、育ち盛りの子供の筋力の弱さが報告されている。
それによると、ボールを投げたことでその腕が骨折する、疲労骨折の例。また、ごく最近の報告によると、学校の朝礼などの時にまっすぐ立っていられず、身体がぐらぐら動く生徒が目立つという。その原因は、テレビゲームなどの影響とされている。また、感覚器においてもその機能は減弱し、退化現象としか言いようがないことが起きている。転んだときなど、手や腕で顔や前頭部を保護するのは、動物としての反射神経であった。
しかし、近年はそれが出来ないというのである。そして顔面や前頭部を直接打撲してしまう例など、元々ヒトに備わっていたはずの聴力、視力の減弱化などとともに、”自己防衛本能”までが失われつつある。

さらに怖ろしいことは、これらの現象に対する一般の人々の危機感や問題意識などが全く薄れてしまっていることである。

それに輪をかけるように、DNAの遺伝情報を逸脱したかのように親の身長をはるかに超える子の例などは、人類学上でも退化傾向にあるとされている。

また、ヒトの歯牙の形態、およびその大きさなども、遺伝情報に盛り込まれているとされている。普通は乳歯が萌出し、交換機を経て永久歯の正常で完全な萌出を待つのであるが、永久歯が植率顎堤は獲得形質(母乳を吸う行為で始まる顎の成長)であるから、出生後の吸啜行為に始まり、乳歯列の時期は特に良く噛むことで、乳歯の歯間離開(顎堤が拡大するため乳歯と乳歯の間が開く)が進み、永久歯の萌出を待つ態勢(顎の拡大)が整うことが理想的なのである。
しかし特に最近の一般的傾向として永久歯の大きさと、顎堤のスペースとのバランスを欠き、いわゆる叢生(crowding 不整歯列=乱ぐい歯)になる例が高率を示している。

また、脊柱側彎症や猫背の症例も、近代文明の中に暮らす二足歩行をするヒトの身体に現れる特徴といわれている。

これらのことを総合的に考え合わせると、やはり噛み合わせの異常や、顎の位置異常が最大の原因ではなかろうかと思う。また、安易な生活ぶりの反映でもある。

それらの理由に、昔とは比べ物にならないほどの豊かな食材に囲まれ自由に選択できるはずなのであるが、それらが実際には個人レベルでは生かされていないのである。
我々ヒトは、ヒト科のヒトとされ、学名をホモ・サピエンス・サピエンス=”賢いひと”とされている。しかし、その命名も"ヒト"が名付けたもの、と冗談の一つも言いたくなるほどに、特に近年においては、それぞれが考えて行動しないのである。マスコミによるコマーシャルの影響などが大きいのであるが、大切な自身や家族の身体を守ろうとする意識が全く欠けているといえる。そのような結果が、大切な乳歯や永久歯の歯質(骨の丈夫さ)に明らかである。
これらは全身の骨質の反映でもあり、はなはだ脆弱な状態であるところから、今を生きる我々ヒトの将来を見るまでもなく、体力的にも退化現象が著しいのである。

しかし、これらは現代特有の問題だけではなく、興味のある資料がある。
それは、日本の過去の歴史の中でも、ある一定の条件さえ整えばみられる現象といえるであろう。

徳川家十五代にわたる将軍らの実態である。
今も現在する「徳川実記」や、頭蓋骨をはじめとした多くの資料がある。その解説などに、顔貌や歯並び、病歴、性格までも、実に詳細な資料が残されている。

その内容(初代家康を除いて)は顔貌と歯並びが現代の若者と酷似し、いわゆる”しょうゆ顔”と言われるものである。(鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人々』)

当時の平民などと比べて将軍の食事にはまわりの者が相当気遣ったようで、口触りの良い、いわゆる美味しいものだけ、嫌いなものは無礼であるということであろう、食膳にも乗せなかったのである。
ましてや、食事中に魚の骨など出て来ようものなら、もってのほかで、切腹ものであったといわれる。

現在の子供はおろか、その親の世代も魚嫌いが多いという。その理由に「骨があるから」などといって憚らないことに驚きを感じる。
また、現在の子供に骨の図を書かせると、スーパーなどで販売されているパック詰め切り身の絵を描いたという話などを聞くに及んでは、周囲を海に囲まれている日本であり、その有難く恵まれた環境にありながら偉大な価値を見失ってしまい、浮き足立っている国民の将来は実に嘆かわしい限りである。

そして、ジャンクフードといわれるような軟らかくとろけるような食品が、美味しい食べ物の代名詞のようになってしまっている。

これを考える時、徳川将軍の当時の食事との類似点は、あまり噛まなくても飲み込むことが可能なもの、つまり、顎を使う必要がないということであろう。

これを、大変な事態と心得るべきなのである。
徳川家十五代の将軍らから学ばなければならないことは、ヒトに備わっているべき基礎的体力には、噛む力も強いということも一つの条件であり、脳の発達をはじめとした様々な防衛本能を兼ね備えた健康な社会人としての必要条件でもある。これらを考える時、皮肉にも、近年の若者はこぞって殿様のようになってしまったのであろうか。
これら要素を勘案すると、日本人は滅亡の道程にあるという説に反論することが出来るであろうか。

また、十五代にわたる各将軍の平均寿命は51歳であるが、平均に満たない者は将軍直系の「家」と付く者ばかりで、大奥で甘やかされ過保護で育てられた者たちであった。そして歯並びが悪く、面長(しょうゆ顔)顔貌までも現在と似ているのである。
また、今の若者には頭痛、肩こり、腰痛、関節炎などを訴え、自由気ままな生活ぶりと、そこに徳川将軍らの今に残る資料を重ね合わせることで、歯の噛み合わせと身体的な特徴の法則性を見出すことが出来るであろう。(篠田達明『徳川将軍家のカルテ』中日新聞連載、篠田達明『徳川十五台将軍たちの病気カルテ』県民大学叢書6を参考)

先に引用した昔の日本の庶民の暮らしの中にあった『歯固め』の一般的な”行事”を考える時、現在の社会がいかに間違いだらけの価値観で動いているか理解していただけるのではないだろうか。

真の健康ということは、そんな現在の流れに背を向ける考え方が良いのかもしれない。であるなら、将軍と同じ轍をふむべきではない。

今の元気な高齢者は、ただ生きているということではなく、社会的にも現役で活躍している方々がとても目立つのである。今では誰もが知っている名古屋のきんさん・ぎんさんのように、百七歳までも、当意即妙の対応ぶりはTVの映像で見る限り、脳の働きまでが健全であり、余り衰えていないことを如実に証明してくれていたことに驚かされたものであった。
これはひとえに予防医学の功績によるもので、歯科の出番は全くなかった。きんさん・ぎんさんは義歯を全く必要としていなかった事実である。

しかし、ごく最近の報道によると、現在の高齢者が「元気印」であることに背をむける形で、現在の若者たちは”潜在的鉄欠乏状態を示している”との血液専門医の報告がある。
その原因として挙げているのが、豊富な食材に囲まれた生活であるにも拘らず、安易な食事をしていること、例えばコンビニでの買い食いなどが大きな問題という指摘である。また、それら若年層のいわゆる成人病が慢性的になっているようであり、かつ、低年齢化の傾向にあるという。
これら世代が中高年になる頃には、いわゆる生活習慣病の羅漢率が今の高齢者の比ではなく、相当高くなるだろうと、危惧の念を披露している。(尾関由美・朝日新聞・論壇投光)

また、食生態学研究所所長・西丸震哉氏は、「41歳寿命説」というショッキングな説を披露している。
それによると、1959年以降に生まれた者だけになった時、日本人の平均寿命は41歳になる!と、自然環境面からの危惧をその著書で述べている。

先述した分別なき「楽な生活」、安易な「食のあり方」などを考え合わせると、その実態はヒトにおける身土不二の大原則を逸脱してしまい、今や飲料水を、また食文化や食材までも、輸入に頼ることになっている。
国民の将来展望の上からも心底、憂慮に堪えない。

このような事態に何故、歯科学がアウトサイダー的存在でいられるのであろうか。
元より歯科は人体の硬組織を直接見て考えることが出来る立場にあるが、それが全く生かされていないのである。

ひとの健康にとっての第一条件といえば、よい歯で、よく噛み、よいからだ、という評語を思い出す。
これは歯科が国民むけたメッセージであるが、実態は空文化してしまい、結果として永久歯の歯質や歯並びに根本的な問題を抱える例が圧倒的になっている。そして、世代が引き継がれているのである。

現実問題として次世代を担う若者がこのような状況では、その身体や精神構造を含め日本の将来は暗澹たる結果は避けられまい。
それぞれの識者が警鐘を鳴らしているのである。問題は、国民の安全と健康的な暮らしを約束しなければならない政治の第一に取り組まなければならない大事な役割といえよう。

ヒトは生を受け、老い、病を得て死に至る、いわゆる生・老・病・死がヒトの一生といわれている。しかし、老いる速度が様々なる理由でかなり遅く、老化が遠のいた感があることと、現在の高齢者は病を患っても近代の予防医学や薬学の発達などにより、死に至る時期が遠のいたと言えるであろう。
また、その高齢者の生い立ちは、一様に現在のように全てが便利ではなく、何事によらずからだを酷使しなければ成就しない時代であった。そして、懸命に現在の繁栄の礎と強靭なからだを築きあげたのであった。
言わば、これが”昔取った杵柄”という諺どおりで、若く元気な頃に日常の生活をしながら身体を鍛えた、尊い結果であることに注目すべきである。しかし、年齢を重ねた人体の器官や臓器は一様に老化し、疲弊しているのであって、決して若い時代のそれらではないことも確かである。
予防医学と薬学は研究のテーマをそれらに照準を合わせ、その成果が長寿社会の一端を担ったことは間違いのない事実である。また、乳幼児の死亡率をも下げたのであった。
これらに対する様々な是非論は別にしても、特筆すべきことであろう。

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