歯原病-病気を見て患者を見ず

歯原病をどうするか

これまで親となる者としての子育ての基本的概念や、育児に対する管理上の未熟さ、無知など、また、自分自身で問題意識を持たないための不摂生や宿命的な要素がその原因になることなどについて、医療界及び行政の実態を含め概略述べてみた。
しかし、それらとは別に、歯科における虫歯などの治療や歯列矯正を受けたことが直接的なきっかけで発症する場合とでは、天と地ほどの差がある。これらは、施療にあたった歯科医師としての責任を問われることにもなりかねない。
現に、各地において民事訴訟が起こされている。これに付言すると、それらいわゆる”歯原病”の原因になる治療行為は、国家が認定した歯科医師による医療行為に端を発しているのであり、スモン病やイタイイタイ病など、また最近では薬害エイズ事件等々でで争われたように、医療全般にわたる管理者としての国の責任についても、成り行き次第では問われかねない問題である。

それらについて旧厚生省も、ことの重大性からか、平成八年度から厚生科学研究という高齢者を対象の特別な研究班を設けている。
また、総務省の管轄する日本学術会議第7部=咬合学研究連絡委員会が歯科学関係である。その中に、主要歯科大学からの代表で構成する三つのプロジェクトチームがある。しかし、それらはいずれも未だ研究の途上にあり、結論などは出ていないのが現状である。従って、今日も全国各地の歯科の診療施設で行われている日常診療に対する指針なども、出されていない状況にある。ということは、今日もどこかで歯原病の原因になりうる歯科治療が医療行為として公然と行われている、と言っても過言ではない。
患者としては「たまったものではない」という、怒りの声すら聞こえる。

国の認める医療機関、またその施設において、虫歯の治療などを受け、その予後が思わしくなく、何度となく担当の歯科医に訴えても、元どおりの身体にならず、不調を感じながら止むを得ず泣き寝入りしている患者がなんと多いことか。

こうした現状から、逸早くそれら関連の研修を受けて自己防衛する動きもあるが、従来のテクニック・ノウハウのような簡単な考え方では、到底これら問題の根本的解決には至らないと言っても過言ではない。

また、現に行われている歯科医師などに対する卒後研修の内容が、従来からの歯科治療概念の延長線上では、残念ながら全くこれらの問題解決には至らないということを指摘せざるを得ないのである。
これは、実際にそれらの卒後研修会の実態から強く指摘しなければならない。

つまり、従来の歯科学の概念や学説の基本的な部分の変革にも及ぶ内容を意味しているからである。

現在までの医学や歯科学の研究そのものの方向性に問題があるにせよ、今や顎口腔の疾患と全身系の疾患とは、医歯二元論に象徴される制度的弊害と位置付けた上で対応を考えなくてはならない。
即ち、これら”狭間の疾患”は医学、歯科学の教育および研究段階からも”分極化”してしまった結果と断じて過言ではない。

それは人体の各部を”専門的”に研究し、一人の患者の様々な症状を様々な専門家が対処してしまう「システムのツケ」が負の遺産となり、最近になって多くの患者が原因不明の疾患となっていることに早く気付くべきではなかろうか。

従って、医学系と歯科学系が、「人体」を分断し、それをさらに細分化している現在の医学系の研究のあり方や体制そのものが、問われなければならない。
デカルトやラ・メトリーの言う、心身二元論や人間機械論から脱却が必要ではなかろうか。

言い古されたことでもあるが、医学全般に望むことは、人体の分からない事実に対する対応は、分析だけでは見えなくなってしまう危険性がある。
つまり、自然科学を対称にする医学、歯科学系においては人体の不可思議な部分、あるいは現象をありのままに受け入れる、という”度量”が必要なのではなかろうか。そうでなければ、原因不明の疾患に苦しむ患者は救われない。それこそが、自然科学に対する対応のあり方ではないかとも考えるのである。従って、歯科学の一部に”文明病”などということで体裁を繕うことは偽善であることを知るべきである。
文明の意味するものは、時代の経過とともに、ヒトが、そしてその暮らし振りが、貧困や愚かになることを指して表現する言葉ではないからである。

科学文明が急速に発展し、エネルギーの使用が際限なく、文明社会の物質文明は我々ヒトをあらゆる意味で頂点に導いた。その結果は原因不明の病気をも増加させてしまったのであった。近代の医学研究が最先端を極めているにもかかわらず、である。

識者はこれらを、医学と医術とを混同しているのではないか、と警鐘をならしてる。
つまり、医学はサイエンスであり医術はテクニックであるとし、学問の発達がイコール技術の進歩には繋がらないとしている。
医学系、歯科学系の現状に対する鋭い指摘ではある。

元より、人体は心をも含め一体なのである。
「人体を総合的に捉えよ」などと口にすることのほうが、滑稽でナンセンスな話である。
敢えて言うなら、人体の顎口腔を便宜的にもせよ分断した医学知識のまま、それぞれが人体の諸々の症状に、皮肉にも”専門的”に対応をしていること自体が、また、そのような現在のシステムそのものが、いわゆる歯原病といわれる症状の多発する温床になったと言わざるをえない。それこそが、様々の問題の原基になっている。

アレキシス・カレルが書いた『人間ーこの未知なるもの』に、「医学が病気の研究だけに閉じこもるならば、それは医学自体が、かたわになること」という言葉の意味の大きさを感じずにはいられないのである。

それは”ヒト”の身体に現れる様々な疾患に対し、その原因がわからない、また特定できないのであれば、たとえそれが仮説や経験則であったとしても、顎口腔と全身系とのかかわりを標榜する専門的研究の実態に目を向け、それら症状に対する近代最先端の医学的な対応の中に組み入れるべきではなかろうか。
カレルの言葉は、そのようなプライドやカテゴリーといった、バリアー自体を指した言葉でもあろう。

原因が顎口腔にある疾患が、口腔以外の部位に出てしまうため、現状は当然のこととして当該専門の診療科が対応するということになる。しかし、そこで原因の特定が出来ないのであれば、原因は何か、という最も大事な作業の段階で、顎口腔と全身系をテーマにしている専門家の診断を参考にすべきなのである。また、それらをも含めた作業を”精密検査”というのではなかろうか。
それらを全く考えない従来の医学的な診断システムでは、各種疾病の予診や診断の段階から、解決の糸口を失ってしまうことになる。
そしてその結果は、それを意図しないとしても、結果的に患者を"たらい回し"にし、患者にとって不利益なものとなり、ひいては医療費増大の原因になるのである。実に、はた迷惑でおかしな話である。

冒頭に述べたところだが、原因が判らない一見複雑そうに見える症状であっても、顎口腔も身体の一部であり、それらを含むからだ全体をあらゆる視点で精査することで診えてくるのも、相当数に上るのではないか。人体における原因不明の各種不調和が不定愁訴といわれるものであるが、症状分析する中で、顎口腔に原因が存在するという、実に単純明快とでも言える実態が高率を示しているように見える。
故に、冒頭に記した、ヒトが地上に立ち上がり二足歩行をするようになったことで、宿命的でしかも構造的な理由の端緒になったところから、敢えて原始的という言葉を被せたのである。

これらを日常臨床に導入するためには、制度的な改革を必要とするため”国民の健康”を最重要問題として位置付ける政府において、第一級の最重要な政治課題として早急な検討を要求する。

原因不明の疾患が高率になっている現状で、問題の根本的解決には到底至らないことも明記すべきであろう。

一重に、医科と歯科の垣根を乗り越えた研究や日常の診療体制の変革の成果が待たれている。それらによる成果の下で、従来からの歯科医学、ひいては歯科治療の概念の抜本的な変革にも及ぶ内容でない限り、決して問題の根本的解決には至らない。
消費者でもある患者の立場を第一に!ということを常に念頭におき、関係各位の一層の努力を願わずにはいられないのである。

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