失われた日本食が歯の病気を増大させた

医食同源

人体における顎口腔系の重要度を今更ながらに考える時、日本の現在までの歯科医学、またその臨床現場に、「歯科医療としての哲学があるのか」と問わねばならない。

また歯の健康法については歯科でよく言われている”予防法”に、乳児に対する歯の管理を挙げている。
「栄養のバランスを考えること、出生時からの母乳の吸啜行為の重要性、乳歯が生えたら硬い食材を与えよ」などがあるが、そのような内容で今日的な問題が解決されるのだろうか。

予防という言葉の意味は、「悪い事態を生じないように気をつけ、前もって防ぐこと」(岩波「国語辞典」第5版)である。予防の建前からすると、今の歯科の対応は手遅れである。
理想的には顎口腔の専門としての歯科学が、現状を直視し、しっかりとした指針を打ち出すべきではなかろうか。

因みに、現在も元気で活躍している高齢者層の骨質は残存歯の歯質も、概してとても硬く丈夫である。
それら高齢者の幼少時代は今とは比べることが出来ないほど粗食であったことは、よく知られている。
そして、今ほどは歯科医療が発展していなかったのである。

筆者の知る一例を紹介する。
山梨県の棡原は長寿の里として知られている。そこの長老・佐渡松平氏(平成14年現在95歳)と知り合うことができ、しばしば直接お話を伺うことがある。
それによると、ご夫婦と子供9人の11人家族が、夕餉のおかずにしたサンマの干し物の話には驚かされる。たった一匹のさんまの身の部分は9人の子供が分け合って食べ、夫婦は頭と中骨を食べていた、と長男が両親を前に語っておられた。

普段は自家製の野菜やうどんを常食にしていた由、おかずにサンマなどは年に一度か二度の特別な日のご馳走だった、と当時を懐かしんでおられた。
その長男は現在61歳で、しっかりした体格の持主であることにも実に驚かされる。

そこで、今日の食生活はどうであろうか。
一人ひとりが真剣に考えなくてはならないが、言葉を失うほどであろう。
そして、若年層の歯質は非常に柔らかく、もろいということは、臨床歯科医の常識でもある。
そして”飽食の時代”と言われている現状からのこの国の将来を考える時、暗澹たる気持ちにさせられる。

これらに対する真の予防法とは、まずは両親となる者は、婚姻の前提として食生活の根本的見直しが必要である。
日頃から小魚や海草、大豆タンパクなどを”常に沢山”摂取することや、便利な生活に甘んずることなく、適度の運動を習慣として生活し、生まれてくる子の骨質を豊かで丈夫なものにすること以外に方法はない。
理想的には、それからの受胎が望ましい。そして出生後は母乳を基本に、軟食を避けることで顎を広げ、乳歯の虫歯の治療に対しては、ただ虫食いの部分を削り詰め物をするといった場当たり的な処置ではなく、永久歯の萌出を見据えた管理的処置が図られなければならないこと、これを育児の鉄則にするべきだろう。また、成長して青、壮年期に至る過程においても、数年に一度は虫歯などの病気がなくても顎口腔系と全身系の関わりを熟知している歯科医師に、咬耗の程度など顎口腔の状態の精査診断を受けておくことが必要である。
そこで問題があるようならば適切な処置を受け、心身の健康を維持、管理することを心がけることである。
また、これが永久歯を理想的に萌出させ適切な顎位を維持させることができる唯一の方法でもある。

消化器系硬組織を担当する歯科学の指導性の下で周知し、国民の期待に応えるべきではなかろうか。

以上のことは、国民の健康に与える厚生労働省も、ことの重大性を重視し、行政に反映させるべきであろう。
しかし、臨床現場に対するこのような根本的指針などは、出産後からに終点を当てるにすぎず、理想からすると余りにも短絡的であり、残念だが効果は期待簿の現状といえる。
若年層の歯質の軟弱な傾向は、今に始まったことではないからである。

生まれてくる子の一生で、真の幸せの原点は金や学力ではない。
丈夫な骨質の持ち主であること、そして頑健なからだに鍛えることである。

しかし今流は、本来の意味で子の幸せを願うことなく、全てが他人と比べる生活が基本になっていることに加え、衝動的ともいえる”出来ちゃった結婚”では、所詮、無理な話なのではあるが…。

近年、母乳についての有効性が叫ばれている。
ヒトの母乳の特性は、他の哺乳類動物と比べると、子を育てるための栄養価自体、非常に低いとされている。
何故なら、他の哺乳類動物は生後間もなく立ち上がり、生きるために外敵から身を守ることが優先されなければならない。そのため、親と行動を共にすることが出来るように、栄養価の高い乳を必要としていると言われている。しかし、我々ヒトは食物連鎖の頂点に君臨し、外敵がいないのである。従って、1年たってようやく一人歩きが出来るかどうかと言ったところであろう。そのため栄養価の高い乳は必要としていない、否、摂取してはならないと言うのである。
これなど歩行に限ったことではなく、脳を始めとして全身的な成長の観点からも、その速度はなるべくゆったりと親の庇護の下になくてはならないことを示すものと言われている。

また、昔は三大栄養素の必要性を叩き込まれたのであるが、近年は栄養過多による肥満が生活習慣病の原因と言われ、食物繊維やカルシウムなどが加えられたかのように、その必要性を声高に叫んでいる。そして、毎日の新聞やTVで”便秘には○○”と言う宣伝のない日はないほどである。これに限ったことではないが、共通することは、過去に誤った価値観を唱えた学者の謝罪や自己批判などは聞いたことがない。
無責任な世の中の典型である。

注目に値する資料をここに紹介する。
『歯固めのこと』と題している(宮尾嶽雄前愛知学院大学歯学部教授)『菅江真澄遊覧記』には、所々に「歯固め」のことが採録されている。
例えば、次の如くである。寛政10(1798)年1月、東津軽群平内町小湊(夏泊半島)にて、「婿、嫁が、年賀に持ってきたかがみ餅も、神にそなえた供餅も、小正月がおわると、藁につつみ、こもにくるんで、氷餅といっしょに掛けならべておいて、6月1日、氷室の祝い、歯がための祝いに、家ごとに食べるならわしである」

享和3(1803)年、北秋田郡比内群大滝(現・大舘市)にて、「『元旦』この村のならわしだ、どこの家でもあわせ餅(二枚の餅を味噌などでくっつけてあわせる)というものをあぶり、誰はいくつあわせ、彼はいくつあわせ食べたなどと言いながら、はがためをする」

享和3年、同じく比内町扇田にて、「6月1日、けさは氷室の祝いとして、誰の家でも氷餅を食べて、歯固めという行事をしている」

「『氷室の祝い』というのは、むかし、宮廷で6月1日、冬季にたくわえておいた氷室の氷を献上させて節会を行ったことをいうのだとされる。正月あるいは6月にハガタメと称してものを食べる風は全国にわたっているようで、その多くは餅をたべることにしているが、木の実を食べる例も多い」(『分類食物習俗語彙』)

「愛知県北設楽群では、元旦、一同顔を洗って恵方へ向かって拍手をうつ、それから年神様を初め諸神仏を拝し、家中『おめでとう』と挨拶をすますと、一同囲炉裏または炬燵を囲んで茶を飲み、歯固めを食う。歯固めは年取りの夜、神棚に供えて置いたもので、串柿、干栗、榧の身、煎り豆、鯣、干鮑などである。歯固め餅とか年取り餅、とかいって、暮に歳神様に供えて置いた丸い大きな餅を食べるところもある。串柿は種が多い程よいともいった」(『北設楽群史』)

「『歯固め』の名はめでたい名であるから、いろいろな場合につかわれたのであろうが、おそらくその食物が硬いものであったからで、人の健康にもそうした硬い食物が役立つと考えられたのであるまいか」(『民俗学事典』)

「歯固め」の意味は、室町時代の碩学・一条兼良(1402~81)の『江次第抄』によれば、「歯は人の年齢を謂ふなり。歯固めは、年を延ばし固むるの儀なり」という(『有識故実』による)。貝原益軒とその甥・貝原好古の編著になる『日本歳時記』(貞享4年=1687)には、「元旦、歯固めといひて、もちゐかがみにむかふ。但人は歯をもって命とする故に歯といふ文字をよはひともよむなり。歯固めはよはひをかたむるこころなり」とある。
「もちゐかがみ」は「鏡餅」で餅を鏡の形に作るによる。
1年は365日、その300余日はフダンの日であるが、特に定まったある日のみは、何かと用意をし、家内一同和やかにその日を送ろうとする。セチ、マツリ、イワイである。
公式には唐の制度を模倣した宮中であったのかもしれない。

柳田國男『年中行事覚書』を引こう。
「それはいわゆる口腹の欲を満たそうがために、企てられたものではないことを考えてみなければならぬ。私たちの食物の好みは、既に今日は著しく変わっている。甘く柔らかく温かく、またおつゆの多いものがだんだんと増加しているが、節の日の食物にはそういうものがごく少ない。正月にはことに歯で噛み砕いて米噛みのくたびれるようなものが多かったが、それらはことごとく不人望になり、しかも人間の歯はあべこべに、もとよりも悪くなっている。節供はただ単に遊びでうまい物を食べる日ではなかった」

今日、おせち料理に勝栗や硬い干し柿、鯣などをつける家庭は殆どあるまい。
重い意味を持っていたこうした風習が亡び、その心が失われていくのを惜しむ。
そんなことを言ってみても、所詮はゴマメの歯ぎしりにすぎないか。

アレキシス・カレル(1873-1944)も、次のように言っている。
「古くなったパンやこわい肉のような硬い食物は、もはや我々の食卓には出されない。同じように医者はあごは硬いものを噛み砕くためにあり、胃は自然の産物を消化するように出来ていることをわすれてしまっている。子供たちは主として柔らかい、すりつぶした、どろどろになった食物と、ミルクで育てられている。あごや歯や顔の筋肉には、十分に困難な仕事が与えられない」。
また、「適応機能の衰退には必ず人間の価値の低下を伴う」とも。(journal of growth30・・219~221,1991)

現在のように歯科医療が”発展”していなかったその昔から、人々は「歯」に対して特別の考え方があった。そして、歯を大切にしようという行事が日本の各地で行われていたのである。
これなど国や自治体が制度として行っていたのではなく、ごく一般の家庭で行われていた、日本古来の優れた食文化の一部分であった。

一に係って我が身を、我が子を自己管理してきた、日本人の優れた知恵であった。

しかし、食を含む全てが昔と比べられないほどに豊かになった現在、真に残念ながら、これらのすばらしい”知恵”は今や全く姿を消してしまった感がする。

歯は、ヒトが健康に生活する上で最も基本的な道具の一つであり、世の中の流れに身を任せるのではなく、何が本物で何が偽者か、また何が必要で何が不必要か、を見分ける「能力」を養うことが、丈夫なからだを作り、健康を維持するためにはどうしても必要である。

これに呼応するように最近、粗食の勧めといったタイトルの書物が目立つのである。
これなど、日本だけの現象ではないようだ。欧米の中流意識の中にも健康志向が強く働き、食の基本を動物性から植物性へと、また植物性の繊維質を多く取り入れようと、豆腐や納豆に代表される日本食ブームとまで言われている。このような世界的な流れにもかかわらず、お膝元の日本の若者はコマーシャルの甘言に身を任せ、自身の健康管理についての意識はきわめて低く、軟らかくおいしい肉への欲求が以前にも増しているのである。

ヒト科のヒト・ホモサピエンス・賢いひととされた人類の”食”という意味からも”基本的なヒトの食”を考える時、文化人類学の碩学といわれるクロードレヴィ・ストロースが、人類の肉食はその起源においてカニバリズム(食人習俗)と結びついていると指摘し、時代は植物蛋白質中心の食習慣に変わる将来、「肉は取って置きの宴会メニュウになるだろう」と発言していた(中央公論4月号)。
これなど、参考にすべきではなかろうか。

因みに彼の朝鮮戦争時のエピソードであるが、米軍が進駐した時期から韓国軍の兵士に直腸がんが多発したという。
理由は、それまでの”民族食”を、米国流の”肉食を主体”に変えて兵隊に供せられた結果であった。

以上のことから、先にも述べたが、肝心の親の食生活に対する意識の改善が先決問題になってくる。
二次的に、生後の幼いころからの食生活が重要視されねばらならい。
これが、予防法の最たるものと言えるであろう。

”医食同源”とは誰でもが、どこかで一度や二度は耳目にしているはずである。
説明の必要もないほど言い得ている言葉を、今一度それぞれの生活の中で具体的に体現しなければならないのではあるまいか。

それにしても時折り、発展途上国の元気な子供たちのTV映像に歯並びの良い子供が目立つのがとても印象的である。

それは我々のように便利な生活様式にはなく、粗食にも耐えているのであろうことは容易に想像できる。
身の周りを見つめ反省する材料になるのではないだろうか。

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